お釈迦様はなぜ人間を“旅人”にたとえたのか?「生きる目的」を明らかにした仏教

「1からわかる仏教講座」スタッフのkakoです。

前回は、仏教には「人間の本当の姿」「真実の自己」が教えられていることを紹介しました。

前回の記事はこちら

旅人と人間に共通しているのは「目的」があること

私の「本当の姿」がわかるようにと、お釈迦様は私たち人間を「旅人」にたとえられています。

ではなぜ「旅人」にたとえられたのでしょうか?

それは「旅人」と私たち人間には共通点があるからです。

その最たるものは「目的」があること。

旅人には必ず、その旅の目的地があります。目的地ほど重要なものはありませんね
仮に、目的なしに歩き続ければ、やがて体力が尽きて倒れてしまいます。

それと同様に、人間にも「生きる目的」があるはずです。

生きる目的を言い換えるなら、

「何のために人間に生まれてきたのか」
「何のために生きているのか」
「どんなに苦しくてもなぜ自殺してはならないのでしょうか?」

ということです。

「あなたは何のために生まれてきたのですか?生きているのですか?」と聞かれたら、あなたならどう答えますか?

お金のため? 子孫を残すため?

俺は仕事のために生きている!

家族のためだ!

社会貢献するためだ!

など、いろいろ言われるでしょう。

お金も仕事も家族も社会貢献も、私たちがよりよく生きていくために大切なのものです。

しかしこれらは、とりあえずこれを目指すという「小目標」、または「生き甲斐」と言われるものなのです

小目標は「生きる手段」であって、「目的」ではない

小目標は達成すると、次、次、、と変わっていくものであり、常に変化します

私たちは、小目標や生き甲斐があるうちは生きています。

仕事でいうなら、係長の次は課長、課長の次は部長を目指そう…と、モチベーションを保てます。

しかし定年退職したらどうでしょう?
今まで生き甲斐としていた仕事をやらなくてもいいとなれば、途端に自分の価値を見出だせなくなってしまうでしょう。

「今まで家族のために何もしてこなかったから、これからは家族のために」と思っていたら、奥さんから離婚状を突き付けられる、という話も聞きます。

退職したらボランティアに参加して社会に貢献します、という人もいますが、そんな人が病気になってボランティアできなくなったらどうしますか?

年をとるにつれて小目標が少なくなっていき、生きる意味を感じられなくなってしまうのです。

しかし「小目標」や「生き甲斐」はあくまで「生きる手段」であって、目的ではありません

仕事や社会貢献もできず、世話にならないと生きられない命の意味は?

今から約1年前、相模原の障害者施設で大量殺傷事件が起こり、世間を震撼させました。

当時26歳だった元施設職員の犯人の男は、「社会に貢献できない障害者は迷惑だから殺した」と言い、大変な物議を醸しました。

もし「仕事」や「社会貢献」、「家族」などのためにしか生きる意味を見出だせなかったらどうでしょうか。

仕事も社会貢献もできず、家族にも世話になる障害者は生きる意味がない人となり、この殺人犯の男まではいかないとしても、似たような考え方になってしまいかねません。

仕事や社会貢献もできない、家族の世話にならないと生きてはいけない、そんな命にどんな意味があるのでしょうか?

皆さん答えられますか?

とても難しい問題ですね。

「私は今は元気だから。目標もいっぱいあるから」と安心している人も、いつ病気になって苦しまれるかわかりません。

もし病気になって動けなくなれば、今まで掲げていた目標も達成不可能となり、生き甲斐を失います。そうなっては、いったい何を明かりとして生きればいいのでしょうか?
生きる気力を失って自棄を起こしたり、憔悴しきったり、あるいは自ら死を選ぶことになっても不思議ではありません。

今は元気で安心している人にとっても大事な問題が、「生きる目的」を知ることなのですね

では「生きる目的」をお釈迦様はどのように教えられているのでしょうか。

次回、すべての人に共通する「生きる意味」に迫ります。