白骨の章と生きる意味

日曜の講座では、仏教に説かれる生きる意味について、室町時代の名文「白骨の章」を通して学びました。

 

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浄土真宗八代法主の蓮如上人の書かれた手紙の中の一つで、その中でも「白骨の章」はとても有名な一作ですので、法事等で聞いたことのある方もあるかと思います。

 

 

こちらが原文です。

 

『白骨』

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。今に至りて誰か百年の形体を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫、末の露よりも繁しといえり。

されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわちニの眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装いを失いぬるときは、六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章 五帖目十六通)

 

 

冒頭に、

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。

とありますように、私たちの生きる様子を仏教では浮生と説かれます。

 

「浮いた生」とは、確かではないものしか頼りにできない、いつどうなるかわからない人生ですから浮き世とも言われます。

それは、安定した仕事や暮らしを求めて努力し、病気や事故に気をつけもしもの時に備えて準備はしていますが、絶対に大丈夫という保証のない世界ですので、昔から「浮き世は憂き世に通ずる」と言われます。

そして、儲かっても損しても、夢を叶えても破れても、過ぎてみれば夢・幻のように過ぎてゆき、「こんなはずではなかった」と苦しむ人さえあります。

 

「白骨」が葬儀でよく読まれるのは、誰かの死期に際して初めて、日々忙しく動いている私たちが人生の姿をまっすぐに見つめ、自分の生きる意味を振り返らずにはいられないからなのかもしれません。

 

 

 

永遠には続かない現実を見つめることを無常観とも言われますが、「白骨」では最後に

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。

と結ばれ、生きている時に一大事を解決して「生まれてきてよかった」という幸せになることを勧められていますので、葬儀や法事で聞かれた時には静かに生きる意味を振り返るご縁としていただけたらと思います。

 

 

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