どうすれば不平・不満をなくし、心からの幸せになれるのか-仏教の幸福論
人はいったい何のために生きているのでしょうか?
一生懸命に仕事に取り組んだり、人間関係のトラブルを解消しようとするのは何のためでしょうか。
それはひと言でいうと「幸せになりたいから」ですね。不幸を求めて生きている人はどこにもいません。
ではどうすれば私たちは不満や不平を解消して、幸せになれるのでしょうか。
ほとんどの人が考えていることは、
金が儲かったら
財産が築けたら
多くの人から認められたなら
社会的な地位が高まれば
幸せになれると思っているでしょう。
そのために私たちは金や物や名声の無い状態から、有る状態になるための努力をしています。金や財産、地位や名誉を手に入れるために涙ぐましい苦労をしているのですね。
では、有る状態になれば私たちは心からの満足を得ることができるのか。仏教ではどう教えられているのでしょうか。仏教の幸福論についてお話していきます。
有る状態も無い状態も共に不安・不満はなくならない
私たちは無い状態から有る状態になろうと日々、大変な苦労をしています。
ところがお釈迦さまは、たとえ有る状態になっても不安や不満はなくならないとおっしゃっています。それは大無量寿経というお経にこのように説かれている通りです。
尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、小長・男女共に銭財を憂う。有無同じく然り。憂き思適に等し。
【尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、小長・男女共に】とは、貧しい人も豊かな人も関係なく、すべての人とということ、
【銭財を憂う】は、お金や財産に対し不安や不満を抱えている、ということです。
【有無同じく然り。憂き思適に等し】だから、有る状態の人も無い状態の人も共に不安・不満があることに変わりはなく、同じである、と言われているのですね。
ではどうして、お金やもの、名声があるのに不満はなくならないのでしょうか?
それは私たちが煩悩の塊であるから、と教えられています。
人間は煩悩の塊-煩悩具足の凡夫
美文としても有名な仏教古典・歎異抄には、私たち人間のことを
煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)
と書かれています。
煩悩は私たちを煩わせ悩ませるもののことです。全部で108あると言われています。
具足とは、それでできている、100%ということです。人間は煩悩でできていて、ちょうど雪だるまから雪を取ったら何も無くなってしまうように、人間から煩悩を取ったら何も無くなる、ということですね。
凡夫は人間のことです。私たち人間は煩悩の塊であると説かれています。
先述の通り、煩悩は全部で108あるのですが、特に私たちを煩わせ悩ませるものに3つあり、これを三毒の煩悩と言われます。
三毒の煩悩は、
- 貧欲(とんよく)
- 瞋恚(しんに)
- 愚痴
の3つのことです。
貧欲は私たちの欲の心のことです。欲は「あれがほしい、これがほしい」とか「ほめられたい、楽がしたい」という心です。
貧という字は「むさぼる」と読みますが、「限りがない」という意味があります。私たちの欲は「これで満たされた」ということがなく限りがないのですね。
いくら手にしても満たされない欲
駅前には宝くじを買い求める列ができています。夏が過ぎ、サマージャンボ宝くじが終わったと思ったら、早くも次はオータムジャンボ宝くじが売られているのですね。「お金がほしい」と多くの人が宝くじを買い求めています。1等は当選金は3億3千万円だそうです。
仮に、そんな大金がもし当たったら、さすがに私たちのお金がほしいという欲も満たされるのはないでしょうか?
ところが、そんな大金を手にすると、今まで目につかなかったような高価なものが目につくようになり、欲しくなると言われます。車とか家とか、あれもこれもと高額商品が欲しくなり、今持っているお金では結局足りないとなるのです。持っている量に応じて無限に膨らんでいくのが人間の欲の心なのですね。
「20世紀最大の海運王」といわれ、ミリオネアであったアリストテレス・オナシスは
富は海水に似ている
という言葉を残しています。(もともとはドイツの哲学者 ショーペンハウアーの言葉です)
海水を飲めば、瞬間的にはのどが渇きが潤わされたように感じます。しかし、その後に猛烈な渇きがやってくるのです。ちょうどそのように、私たちの欲の心も一時的に満たされたことはあっても、その後に「もっと欲しい」という欲の心に悩まされるのですね。
この欲の心のために、私たちはいくらお金やものに恵まれたとしても、満たされきることはなく、不満が出てくるのですね。また、手にしたものの維持や管理で苦労し、手にしたものがなくなりはしないかと不安になるのです。
お釈迦さまが説かれた有無同然についてさらに掘り下げていきたいと思います。