本音を隠すのに苦しむ人間の実態 心と口の真実について
前回は、ドローンや石川五右衛門の話を通して、人間は心こそ問題にすべきであり、仏教もでも心で何を思っているかが最も重視されるとお話しました。
前回の記事はこちら
心があらゆる行為の元である その理由とは
心が最も重視されるのは、心が口や身体を動かしているからです。心で思ったことを口に言わせ、身体にやらせているのですね。心が大元なのです。
しかしそう聞くと、
「心で思っていることと、口で言っていることが違うこともあるじゃないか」
「“心にもないことを言う”ともいわれるよ」
と思う方もいるでしょう。
【心で思っていることを口に言わせている】ことと、【心にもないことを言う】こととはどのように理解すればいいでしょうか。
Childhood Secrets / Lisa M Photography
「心にもないこと」を言わせているのは心
私たちは、心で思っていることを口に言わせているのは間違いないのですが、常に心で思ったことをそのまま口に出すことはありませんね。
たとえば、知り合いのお母さんと出会い、お母さんの抱いている赤ちゃんの顔を見たとき。可愛らしい赤ちゃんばかりではなく、赤ちゃんによっては「お世辞にも可愛いとは言えない。どっちの親に似たのかなぁ。可愛そうに…」と思ってしまいます。
とてもそんな心の思いをそのまま口に出せるはずもありません。そのまま口にすればお母さんが激怒し大問題が発生。穏便に済ませるべく、口で心の思いをお化粧するのです。「まあ、可愛らしい赤ちゃんねぇ」とか言って。これが「心にもないことを言う」ということですね。
確かにこれは心で思ったことと違うことを言っているわけですが、ではそのように口に言わせたのは誰でしょうか? それはやはり私自身であり、私の心が「“可愛らしい赤ちゃん”と言え」と口に命令したのです。そう言わせず、心のも思いのまま口に出したらお母さんと私との関係が修復不可能になるからですね。
仏教を説かれたお釈迦さまは、人間の心と口の関係を
心口各異 言念無実(しんくかくい ごんねんむじつ):大無量寿経
とおっしゃっています。「心と口は各々異なり、言っていることと思っていることに実(まこと)がない」と書き下します。
心で思っていることは悪いことばかり。それをそのまま口に言わせたなら人間関係が破綻するので、口にはウソやお世辞など都合のいいことを言わせるのです。だから、心で思っていることも口で言っていることも実(まこと)がない、とお釈迦さまは断言されているのです。
本音を隠すのに苦しんでいる
「口が滑った」という言葉もあります。失言したときの慣用句ですね。「本当はそんなことは思っていないのに、ついつい口から出ちゃった」という意味で使っていますが、仏教の観点からいえば、心で思っていないことが口に出るはずはありません。「ついつい“本音”が出ちゃった」というのが正しく、これでは身も蓋もありませんから、「口が滑った」と言って本音が出たことを誤魔化しているのですね。
政治の世界では、この失言が原因で辞職に追い込まれることも多々あります。
イギリスの元首相 ゴードン・ブラウン氏は2010年に失言問題に悩まされました。
2010年4月28日、路上で移民問題について労働党を支持する年金生活者の女性と対談し、その後会話を終えて立ち去る際、ブラウンが胸に付けていたピンマイクのスイッチが入ったままである事に気付かず、直後に隠れて吐いた「話さなければ良かった」「偏屈だらけの女」などの暴言がマイクに拾われる事態となった。
この一件はマスコミに大きくスクープされ、直後の党首討論にも影響を与えることとなった。ブラウンはラジオ、電話などを通じて謝罪した後、女性の自宅を訪問し女性に直接謝罪をしている。
ブラウン氏は暴言を吐いた女性に直接謝罪をしましたが、結局、その年の選挙は敗北に終わりました。
私たちはいかに本音を隠すことに神経を使い苦しんでいるかがわかります。それほど苦しむのは、それだけ人には言えないことを心で思い続けているからなのですね。そして何かの縁で失言してしまえば、取り返しのつかない事態を招くのです。
お釈迦さまは、私たちが心で思っていることは悪ばかりであり、心で悪ばかり思っているからこそ口や身体の行いも悪ばかりになるのだとおっしゃっています。
これをお経には
心常念悪
口常言悪
身常行悪
と説かれているのです。
その後にお釈迦さまは「曽無一善」(これまで一つの善もしたことがない)と続けられています。
これまで一つの善もしたことがないとは一体どういうことなのでしょうか。これについて次回、お話しします。