仏教が教える“運命”の原因と結果のルール-「自業自得」の正しい意味とは
「この先、どんな運命は待ち受けているのか? 私の運命は何によって決まるのか?」
自分の運命ほど、知りたいものはありませんよね。
前回は、仏教では“運命”の原因と結果の法則である『因果(いんが)の道理』が教えられていることをお話ししました。
『因果の道理』は次の言葉に集約されます。
それが
善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
であり、
自業自得
です。
それぞれどのような意味かをお話ししていきます。
善いことも悪いこともすべて「自業自得」
善因善果とは、善い原因は善い結果を生み出す、
悪因悪果とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、ということです。
原因に応じた結果が生み出される、ということですね。
また自業自得というのは、自分の業(=行い)によって自分の運命を得る、ということです。
ふつう、自業自得と聞くと、悪い結果に対して使われますよね。
たとえば、「テストでそんなに悪い点数を取ったのは勉強しなかったキミの自業自得だ」とか「スピード違反で捕まったのはあなたの自業自得よ」などと言われています。
しかし悪いことばかりが自業自得なのではなく、善い結果に対しても自業自得であり、自業自得はすべての結果にあてはまるのです。しっかりと勉強して良い点数を取れたのも、安全運転を貫いて免許がゴールドになるのも自業自得なのですね。
因と業は同じ意味であり、善因善果とは、善い行いは善い運命(幸せ)を生み出し、悪い行いは悪い行為(不幸や災難)を引き起こす、善い運命も悪い運命もすべては自分の行為によるものである、これが仏教で明らかにされる「運命の原因と結果の関係」なのです。
業(行い)にも3通りある?
運命を引き起こす業(行い)にも3通りあると仏教では教えられています。
3通りの行いは三業といわれ、以下のものです。
- 身業(しんごう)
- 口業(くごう)
- 意業(いごう)
身業は、体の行いのこと。勉強したり、仕事をしたり、運動をしたりすることですね。
口業は、口の行いのことで、しゃべることです。
普通、行いといえば身業と口業だけのように思いますが、もう1つ、仏教では重要な行いがあるといわれています。それが意業で、これは心の行いのこと。
心の行いとは、心で何かを思うことですね。
「あー、今日も1日、しんどいなぁ」とか「あ!こんな小説が出ていたんだ!」とか、「あの人、とても素敵」とか、反対に「あの人、ムカつく」とか、私たちは心の中でいろいろことを思っています。その心の思いも、運命を引き起こす行いであるといわれているのです。
すべての仏が共通して説かれる七仏通戒偈(しちぶつ つうかいげ)には
自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす
と教えられています。
体や口の善い行いにつとめるのはもちろん、それだけではなく、心もまた清らかにしていきなさい、といわれるのですね。
「自業自得?そんなことは当たり前」と流してはいけない
善い業(行い)によって善い結果が生み出され、悪い業によって悪い結果が引き起こされる。そしてそれらは自業自得で、すべて自分の業によって生み出されたものである。
これが仏教で説かれる運命の因果関係ですね。
この『因果の道理』を聞かれて、「すごい!仏教はそんな高尚なことを教えていたのですね!」と感動される方は、あまりおられないかもしれません。
どちらかというと、「そんなこと、当たり前でしょ。そりゃー、いいことやってれば成功できるだろうし、悪いことをやっていれば痛い目にあう。そんなことは小学生でも知ってるよ」という反応の人が多いでしょう。
確かに当たり前なことだと思ってしまいますが、仏教で重要なのは「知った、わかった」ではありません。いかに教えを身に引き当てて、教えの通りに実行しているかが重要なのです。
いくら「善因善果 悪因悪果」、そして「自業自得」ということが口で言えたとして、怠けてばかりで、悪いことが起きると人のせいにしているような人は、『因果の道理』と本当にわかっている人とはいえないですよね。
答案を白紙で出したのに、「本当は自分は答えはわかっていた。書かなかっただけ」と言っても、まったく説得力がないのと同じことです。答えのわかっている人は当然、答えを書いて答案を出します。
この「実行」について考えさせられる話がありますので、次回、詳しくお話しします。
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