「3つの童子でも知っているが…」白居易と鳥窠道林のエピソードから学ぶ『実行の大切さ』
私たちの一番気になる“運命”はいったい何によって決まるのか?
その運命の仕組みを仏教では
「善因善果 悪因悪果」、
そして「自業自得」と教えられています。
前回はそのことについて詳しくお話ししました。
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これをひと言でいえば、
善い業(行い)によって善い運命が生み出され、悪い業によって悪い運命が引き起こされる。
そしてそれら運命のすべては自業自得で、すべて自分の業によって生み出されたものである
ということです。
この運命の原因と結果の法則を聞かれると、「仏教ではそんなことがお知られていたのですね!素晴らしい教えですね!」と感動される人はあまりいないかもしれません。
反対に「善いことをすれば善い結果がやってきて、悪いことをすれば悪い結果がやってくる…。そんなの当たり前でしょ。小学生でも知ってるよ」と思う人が多いのではないでしょうか。
しかし仏教で大事なのは、「知った」ではなく、実行することです。それについて教訓的な話があります。
3つの子供でも知るが、80歳の老人でもできない
中国の唐代、高名な儒教の学者であった白居易(はっきょい)が、これまた当時有名だった禅僧・鳥窠道林(ちょうかどうりん)にめぐり合いました。
白居易にはもともと、仏教にはどんなことが説かれているのかを知りたい、という思いがありました。しかし名高い儒学者としてのプライドがあり、有象無象ではなく、自分と同じくらい有名な僧からしか聞きたくない、とも思っていたのです。
その白居易にとって、鳥窠道林に出会えたのは絶好の機会でした。
白居易が
「仏教とはどんなことが説かれているのか。一言で教えてほしい」
と仏教の大意を問うたところ、鳥窠道林は以下のように答えました。
諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
(わかりやすくいうと、「もろもろの悪いことをやめなさい。あらゆる善行に尽くしなさい」という意味です)
すると白居易は「そんなこと、3歳の幼児でも知るところだ」と不服を述べ、せせら笑いました。
すかさず鳥窠は
「3つの童子でも知っているが、80歳の老人でもそれを行なうことはできない」
と答え、白居易を一喝したといいます。
大事なのは「知った、覚えた」だけではなく、実際に知った、覚えたことを実行しているかどうか、です。
頭ではわかっていても、善いことにつとめず、悪いことをやりたい放題していては、本当にわかった、とはいえませんね。白居易と鳥窠道林のエピソードは、そんな実行することの大切さを物語っています。
人間は「愚痴」いっぱいで、『因果の道理』がわからない
私たち人間には、
「バレなければ、悪いことをやっても大丈夫だろう」とか、
「自分がこんな目に遭っているのはアイツのせいだ」とか、
「アイツが成功しているのは裏であくどいことをやっているからだ」など、『因果の道理』に反するいろいろな思いがわいてきます。
これらの『因果の道理』に反する思いは総称して「愚痴」といわれます。
愚痴と聞くと、不平不満のように使われていますが、元々は仏教の言葉であり、『因果の道理』に反する思い、心のことをいわれます。
因果の道理からみれば、たとえ誰にも見られていなくて、やった悪行は必ず悪い結果となって返ってきますし、自分にやってきた不幸は自分の行いによるもので、他人を責めるのは筋違いです。
また他人の成功は、その人が裏で一生懸命努力をしたからであり、決してあくどいことはやっていないでしょう(仮にあくどいことをやって成功したように思える人でも、長い目でみれば、悪事がバレて不幸になってしまうはずです)。
因果の道理に照らせば、上記の思いは誤りだとわかるのですが、人間は愚痴いっぱいであり、なかなか因果の道理はわからず、それに沿った行動ができないのです。だから「3つの童子でも知っているが、80歳の老人でもそれを行なうことはできない」といわれるのですね。
「自分は愚痴いっぱいだ。だからこそ自分の心にまかせず因果の道理をよく聞いて、自分の行いを振り返り、できる限り善いことに尽くし、悪いことをやめよう」と心がけることが大切ですね。
では善いことを実行しようとしたとき、善いこととはどんなことかわからないと、実行もできませんよね。
仏教では私たちが実行すべき善いことがたくさん教えられています。次回はその善行について詳しくお話しします。
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