仏教の基礎にみる「人生を好転させる“シンプルな運命のルール”」
4月12日、渋谷区文化総合センター大和田での仏教講座では、「人生を好転させる“シンプルな運命のルール”」について学びました。
仏教は、2600年前にお釈迦様によって説かれたものです。そのお釈迦様の教えはお経として書き残されています。
お経は全部でどれくらいの数があるのか、ご存知でしょうか?
その数は7000余巻です(お経は巻物として書き残されているので、1巻、2巻とかぞえます)。
すごい冊数ですね…。
実はその7000余巻のお経はすべて、ある法則にもとづいて説かれているのです。
その法則がわかれば仏教はぐっと理解しやすくなりますし、その法則自体が私たちの生活をより良くするヒントにもなります。
反対にその法則がよくわからない状態ですと、仏教そのものを正しく知ることはできないのです。
それほど大事な法則とは、『因果(いんが)の道理』のことです。
仏教を知るに大事な法則『因果の道理』とは?
『因果の道理』の因果とは、因は「原因」、果は「結果」のことです。「結果には必ず原因があり、原因なしに起きる結果は絶対にない」というのが因果です。
道理とは仏教で、「いつでもどこでも成り立つこと、真理」をいわれます。
よって『因果の道理』は、「結果には必ず原因がある」という原因と結果の関係が、いつでもどこでも成り立っている、ということですね。
「結果には必ず原因がある」と聞かれて、「それは当たり前でしょ」と思う人もいれば、「いやいや。原因なしに偶然に起こることもあるはずだ」と思われる人もいるでしょう。
もちろん原因が「わからない」ということはあります。
太平洋の真ん中に墜落してしまい、機体が回収不可能になった飛行機の、墜落の原因はわかりません。
しかしそれは「原因なしに墜落した」わけではありませんね。乱気流に巻き込まれた、エンジンが故障した、今の御時世ならテロリストに襲撃をされたとも考えられます。
このように「原因がわからない」ことは数多くあっても、それは「原因なし」に起こったことではありませんね。
すべてが必然と教え、原因なしに起きる結果を決して認めないのが仏教なのです。
仏教には“運命”の原因と結果の法則が教えられている
あらゆる学問-数学や物理学、科学や医学など-はその因果関係を追求することで発展してきました。
医学なら、病気の原因を追求し、その原因を取り除く治療薬や治療法を生み出すことで、どんどんと治せる病気は増えていき、発展していったのですね。
「あらゆる病気の原因はわからない。その場その場をなんとかしのいでいこう」というスタンスでは、新たな治療薬も治療法も生み出されることなく、発展などできませんでしたね。因果関係を明らかにしていくことで大きく進歩していきました。
このようにいろいろな学問で、さまざまな現象の因果関係が明らかにされているのですが、では仏教は何の因果関係を教えているのでしょうか?
それは幸せや不幸といった“運命”の因果関係です。
「どうすれば私たちは幸せになれるのか?」
「なぜ自分だけにこんな不幸な運命が起きるのか?」
そんな運命の疑問に答えているのは仏教の『因果の道理』なのです。
運命ほど不思議なものはない
運命ほど不思議なものはない、ともいわれますね。
「どうして私はこの時代に生まれたのか? なぜ男に生まれたのか?あるいは女に生まれたのか?」
「なぜ日本い生まれたのか?この県に生まれたのか?どうしてこの夫婦のもとに生まれたのか?」
運命についてちょっと考えてみても、たくさんの疑問が出てきますが、それについてハッキリと答えられる人はいないでしょう。
あるいは自分はこの先、どういった運命を辿るのか?幸せになれるのか、あるいは不幸になってしまうのか… それについてもハッキリと答えられる人はいません。
でも自分の運命がこの先どうなっているのか… とても気になりますよね。気にならない人はいないのではないでしょうか。しかしそんな大事なものなのに確証たる答えが聞けません。
占いなど、人の運命について答えているものもありますが、論理的な根拠が欠けているとして仏教では占いを信じることは否定されています。
では仏教では、私たちの運命は何によって決まるとおしえられているのでしょうか?
それを教えた言葉が
善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
であり、また
自業自得
という言葉です。
ひと言でいうなら、私たちの運命は、私たちの行為によって決まるのであり、運命は自分自身が切り開くもの、なのです。
このことについて次回、詳しくお話しします。
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