虚しさの3段階から知る「空虚感」の正体 心から満たされないのはなぜ?
「1からわかる仏教講座」スタッフの minami です。
仏教講座の内容を一部、ご紹介します。
「何かが足りない、どこか虚しい」という思い、抱えていないでしょうか?
今回の講座のテーマは「“むなしさ”の心理学」です。
“むなしさ“と聞かれて、「私は虚しさなんて、まったく感じたことがない」という方はいないでしょう。
これまで、何かしらの虚しさを感じてこられたはずです。
何かに不満があるわけではない。
飛びぬけて幸せだとは思わないけれども、自分のことを特に不幸せだとも感じない。
人並みには幸せな人生を送れていそうな気もしている。
けれどもその一方で、何かが足りない。どこかむなしい。満たされない。つまらない。
「心の底から満たされる何か」がない、と心のどこかでいつも感じている。
著書『むなしさの心理学』で知られる諸富祥彦さんの言葉です。
特別に不満があるわけではないし、人から見れば幸せな人生を送れているように思うけれど、どこか満たされない…。共感される方も多いと思います。
“むなしさ“は「虚しさ」「空しさ」と書かれていますが、もともとは「実無し」という言葉が由来だそうです。「実無し」とは「中身がない、からっぽ」、また「充実感がない、自分の行動に価値を見出だせない」という意味があります。
まさに“むなしい“状態ですね。
こんな“むなしい”状態から抜け出し、心から充実した、満たされた人生を送りたい、というのがすべての人の本音でしょう。その思いを叶えるには、まず“むなしさ”とは何かを知らないといけないですね。
この漠然とした“むなしさ”の正体とは、いったい何なのでしょうか?
「20世紀最大の哲学者」といわれる、ドイツの哲学者 マルティン・ハイデッガー は、3段階に分けて“むなしさ”とは何かを説明しています。
①手持ち無沙汰の虚しさ
ハイデッガーは例として、「ドイツの片田舎で電車を待つむなしさ」と語っています。
日本でも、田舎は電車の本数はがとても少なく、電車に乗り損ねると、次の電車が来るまでかなり時間待たなければなりません。何もすることがなくて長時間待たされるときに感じるむなしさが「手持ち無沙汰のむなしさ」ですね。
けれどこの“むなしさ“は、いわゆるヒマを潰せるものがあれば解消されます。一昔前なら駅の売店で雑誌や新聞を購入して読むことでこのむなしさは解消されていましたが、今では“スマホ”によって簡単にこのむなしさを紛らせることができます。
よってこのむなしさは、漠然とした“むなしさ”とは異なるでしょう。
②パーティー後の虚しさ
「友人宅でパーティーに参加して楽しんで、それが一区切りして自宅で机に向かう時のむなしさ」とハイデッガーは表現しています。
江戸時代の俳人・松尾芭蕉の詠んだ歌に、
面白うて やがてかなしき 鵜飼かな
という歌があります。
鵜飼は、鵜を使ってアユなどを獲る、漁法のひとつです。かがり火を焚いて賑やかに行われ、趣深さがあります。しかしその鵜飼が終わってしまった後は、どうでしょうか?
周囲が真っ暗になり、少し前まで賑やかだった分、たまらなくむなしい気持ちになってきます。
漢の武帝も
歓楽極まりて哀情多し
という言葉を残しています。
歓楽は「楽しい気持ち、喜び」ということ、哀情は「むなしい気持ち、悲しみ」ということで、「楽しい出来事、夢中になっていたことが終わってしまうと、かえって悲しい思いが生じる」ということですね。
これもみな、経験されたことがあるでしょう。学園祭や文化祭は準備のときがいちばん充実していた、とはよく言われますね。クラスメート一致団結して1つのものを作り上げていく過程はとても楽しいものです。
しかし学園祭当日が近づくにつれ、何か、どこかしら寂しい気持ちがやってきます。そして学園祭も無事に終わり、後片付けをしているとその寂しさはピークになりますね。
白球を追いかけることに夢中になっていた高校球児が、高校最後の試合を終えて引退。もう着ることのないユニフォームをたたんでいると、「これでもう終わりなのか」と、表現しようのないむなしさがこみ上げてくるそうです。
このような、夢中になっていたものが終わった後にやってくるむなしさが「パーティー後のむなしさ」です。
③人間存在そのもののむなしさ
ではこの「パーティー後のむなしさ」を解消するにはどうすればいいのでしょうか?
簡単な方法は、「もう1度、パーティーをする」ことです。そうすれば“むなしさ“は解消されるでしょうが、あくまで一時的なものです。パーティーが終わってまた机に向かえば、また同じようなむなしさに襲われてしまうでしょう。
しかしそれ以外に“むなしさ“の解消方法はあるでしょうか?
満たされないと嘆いては満たそうとして、満たされたと思ったのは一時的。また満たされないことに嘆いて、新たな刺激を求めては、またむなしさに襲われて…。
この繰り返しではないかと感じている方もいるかもしれません。
「このままずっと続いていって、そのまま終わってしまうのかな」
「こんな毎日の繰り返しに、いったいどんな意味があるんだろう」
人生の本質が知らされてくると、こんな疑問も出てくるでしょう。
人生は同じことの繰り返しであることをお釈迦様は「流転輪廻(るてんりんね)」といわれています。流転は「流れ転がる」、輪廻は「輪がまわる」ということで、輪が延々と回り続けるように、人生も同じことの繰り返し、満たしては渇き、満たしては渇きの繰り返しで過ぎていくのだ、といわれているのです。
人生が同じことの繰り返しと気づくと、上述の「こんな毎日の繰り返しに、いったいどんな意味があるんだろう」という疑問が頭をもたげ、人生そのもの、私という存在そのものへのむなしさが湧いてくるでしょう。
これがハイデッガーがいう3段階目のむなしさである「人間存在そのもののむなしさ」です。このむなしさこそ、すべてのむなしさの根底にあり、この解消こそ最も大事です。
次回はむなしさ解消のヒントを、お釈迦様のエピソードから紹介します。