イライラやムカムカの心と、どう向き合うか
怒っている時の自分の心を見つめてみると、「自分は正しい、相手が悪い」とカンカンに思い込んでいるのに気づきます。
怒りが収まらない時は相手の非を責める気持ちでいっぱいになっていませんか。
こないだも池袋の駅で駅員に「謝れよ!!」と激高していた中年男性がいました。
SAKURAKO – Do not get mad ! / MIKI Yoshihito (´・ω・)
何があったかわかりませんが、いい大人があんな大声出して見苦しいと、いぶかしげに人々が通り過ぎる中を、顔を真っ赤にして怒鳴っていました。
駅員の何かの言動がその人に何か迷惑をかけたのでしょうが、その非を認めさせないとどうにも収まりがつかなかったのでしょうね。
家庭でも職場でも
「こちらはちゃんとやっているのに、なんでお前はいつも~」
「私ばかりに苦労させて、どうしてあなたは~」
とイライラすることは山ほどあります。
そこへきて相手がその言動を少しも反省していないと、怒りがどうにも収まらなくなります。
「正しい俺が間違ったお前を許しておけないのだ。」という義憤に燃えて「正義の鉄拳、受けてみろ」とばかりに息巻いている自分の心が見えてきます。
怒りの心が起こるのは「自分が正しい」のではなく、「欲が妨げられた」から
ところが、そもそもその「正しい自分だ」と思っているその心をお釈迦様は『自惚れている心である』と喝破されています。
そしてまた釈尊は「相手が間違っているからといって常に腹が立つのでもありませんよ。怒りの心を起こした時のことを思い出してみなさい。決まって『欲の心が妨げられた時』ですよ。」と説かれているのです。
儲け話が、誰かのミスで台無しになった時、「あいつのせいで儲けそこなった!!」と怒りますが、それは「もうけたい」という欲がその人によって邪魔されたからです。
人前で言ってほしくないことを誰かに言われ、「こいつのせいで恥かかせられた!!」と逆上するのは、「ほめられたい」の名誉欲がその一言で妨げられたからです。
朝、目覚まし時計で無理やり起きてくるとき、誰しも不機嫌なのは、睡眠欲が邪魔されたからです。
自分のやりたいこと、望んでいること、期待していることが誰かに邪魔されたら、とても穏やかでおれないのが、人間なのです。
他人の欲にはブタのように鈍感な人間の実態
一方、相手がどんなに間違った人間であっても自分の利害と関係のない場合は、腹が立ちません。
昨年でしたか、エジプトで反政府デモがあり、そのどさくさにまぎれて、店の商品が略奪にあい、女店長が涙目で怒っている場面がテレビに出ていました。
怒りに我を忘れているような憤慨ぶりでした。
無理もありません。
人生かけて守ってきた店なんでしょうから。
そんなニュースを見ても「おのれ、強盗した暴徒め~!」と私自身が腹が立ってくるか、といえば、なんとも思わないのです。
あくびしながら見ています。
しかしそんな私でも自分に利害が絡むと全身逆立てて怒りがこみ上げてきます。
自分のものが盗まれたら、自転車一台でもただではすみません。
「人の物盗ってよく平気でおれるな!!」と激昂することでしょう。
自分に関係ないとブタのように鈍感だが、いったん自分に害が及ぶと烈火のごとく怒り狂う
といわれます。
自分に関係ない場合は、どんな悪いことをしている人がいても、実に鈍感なのに、いったん我が身に利害が絡むと、とたんに全身逆立てて怒り出す。
これが人間の実態です。
欲のあるところ、怒りあり
腹が立って仕方ない時には、自分が正しくて相手が悪いからではない。自分の欲が妨げられているからなんだ、と冷静に原因となっている自分の欲を見つめてみられてはいかがでしょう。
「金がほしい。」
「認められたい。」
「人の上に立ちたい。」
「大事にしてほしい」
「楽したい。」
必ず何か大きな欲の塊がそこにあったはずです。
自分の思いが満たされないからと当たり散らすのが怒りの実態と知れば立派な怒り、ほめられた怒りというのはないことがわかります。
かえって相手の思いを無視してわがままを押し通そうとしている自己の欲深さが見えてきます。
そうなれば怒りはスッと和らぎ、お互いにとっていい方法はないか、対処する視点が今までと変わってくることと思います。