人間は欲を抑えて幸せになることができるのか?-仏道修行と幸福論

私たちはお金やものが無い状態だから苦しんでいると思い、無い状態から有る状態になろうと努力をしていますが、実は世界的な水準からみれば日本人は誰しも非常に恵まれていることをお話しました。

 

前回の記事はこちら

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世界的水準や昔と比べたならば恵まれていると言われる私たち。
それでもなくなりはしない不平や不満。
そんな状態でどうすれば幸せになれるのでしょうか?

sunny sky background

 

 

人は欲の心を断ち切り「明鏡止水」の境地に立てるのか?

「恵まれていることを当たり前に感じているのが悪い。もっと恵まれていることを知って感謝しなさい」を言われる方もあります。

 

「少欲知足」という言葉もあります。「あまり、いろいろな物を欲しがらず、現在の状態で満足すること」という意味です。

欲を満たそうとしても私たちの欲は無限にひろがってしまうため、それなら欲を抑えなさい。できることなら欲を断ち切りなさい。

そうすれば私たちは欲の心に苦しむことなく生きていけるはずだ、ということですね。

 

「雲水」という言葉を聞かれたことはあるでしょうか。

これは禅宗の修行僧のことです。もともとは「行雲流水」の略した言葉です。

「行雲流水」は空を行く雲のように、流れる水のように、物事に執着せず自然の成り行きに任せる生き方をいいます。「おれはこの場所に止まりたいんだ」と一ヵ所に止まっている雲なんてありませんね。

禅宗では、修行を通して物事への執着をなくすこと、欲の心を断ち切れることを目的にしていますので、「行雲流水」の生き方はまさに理想なのですね。

 

また、執着を断ち切った心境は「明鏡止水」とも言われます。

「明鏡」は一点の曇りもない鏡のことであり、「止水」は止まって静かにたたえている水のことです。

邪念がなく、澄み切って落ち着いた心を明鏡止水といわれ、これも禅宗の修行僧が目指すべき心境なのですね。

 

では、私たちは執着を断ち切って、明鏡止水の境地に立つことはできるのでしょうか?

 

 

煩悩具足の人間の限界

執着を断ち切るための修行として「千日回峰行」という修行があります。

「千日回峰行」では、1日48kmの山道を1,000日間歩き続け、その行が終わると、今度は9日間「飲まない」「食べない」「寝ない」「横にならない」(不眠不臥といいます)という修行を続けます。

 

その間は雨が降ろうが、嵐が来ようが、どんなに体調が悪かろうが、途中で止めることはできません。

もし万が一、自分で止めなければならないと判断したならば、その場で腹を短刀で切って行を終えるという厳しい掟があります。

 

こんな激しい修行を成し遂げることができるでしょうか?

 

この千日回峰行は1,300年の間にわずかに1人しか成功者がいなかったのですが、2014年に2人目の成功者となった方がいました。慈眼寺住職・塩沼亮潤氏です。

インタビューが紹介され、当時は大変な反響がありました。(▶1300年で成功者は2人だけ! 1000日間48kmを歩き続け、脱落者は即切腹…過酷すぎる「大峯千日回峰行」を終えた僧の言葉 ? ログミー 1300年で成功者は2人だけ!)

 

そのインタビューで、千日回峰行を成し遂げて知らされたことを話されています。

 

私は「感謝の心」、常に自己を省みる「反省の心」、そして相手を思いやる「敬意の心」、この3つがとても大切だと思います。

なぜ私がこういう考え方に至ったかというと、昔「大峯千日回峰行」という修行を通じて得た世界観なのだと思います。

 

千日回峰行を通してわかられたことは、

  • 「感謝の心」
  • 常に自己を省みる「反省の心」
  • 相手を思いやる「敬意の心」

が大切だ、ということだそうです。

 

もちろんそれは大事なことなのですが、何も千日回峰行までしなくてもいろいろな経験を踏まえて大事だと知らされている人は多いと思います。知らされた大事の深さ加減はまた異なるとは思うのですが。

 

そして、千日回峰行の本来の目的であるのは執着から離れること、煩悩を断ち切ることなのですが、それについてどうなったかは触れられていません。

大変な難行をやり遂げられた方が執着については話せれていないのですから、修行に打ち込んでいない私たちは推して知るべしでしょう。

 

仏教では人間は「煩悩具足の凡夫」と言われています。

このことは前々回の記事で紹介しました。(▶どうすれば不平・不満をなくし、心からの幸せになれるのか-仏教の幸福論)

 

私たちは煩悩の塊ですから、煩悩を断ち切って、執着を離れて生きることはできないと説かれているのですね。

欲を満たそうと思っても、無限に広がる欲を満たし切れることできない。

また、欲を抑えて断ち切ろうと思っても、そんなきびしい修行に打ち込んで成し遂げられる人はいませんし、たとえ成し遂げたとしても得られる心境は「明鏡止水」とは言えないのですね。

 

では私たちはどうすれば本当の幸せになれるのか。幸せになれない原因と解決の手段をお話します。

講座でも一つ一つ詳しく深くお話していますので、ぜひご参加いただければと思います。

人間は欲を抑えて幸せになることができるのか?-仏道修行と幸福論”へ1件のコメント

  1. 江中正望 より:

    私(83歳)の考えを述べます。凡夫の泣き言です。
    煩悩具足の人間が、どうしたら少しでも無になれるのか。真実の心を追い求める。それは清浄心を追い求める。その為に、執着しない心、求めない心を念じ続ける。あらゆる機会を通して、その心を念じていると「気づくよう」心がけています。千日回峰には、遠く及びませんが、私は、毎朝座禅をした後、毎日一万歩を目標に、雨風の日に関係なく歩いています。少しでも、そのような境涯に到達すれば幸せと思っています。諸行無常、諸法無我。

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