煩悩があるままで幸せになれる?-仏教の煩悩即菩提と幸福論

前回の記事では、人間は欲を抑えて幸せになることができるのか?ということについてお話をしました。

前回の記事はこちら
人間は欲を抑えて幸せになることができるのか?-仏道修行と幸福論

人間は煩悩具足の凡夫(煩悩の塊)であると仏教では説かれています。欲を抑えようと思っても、抑えようとした先から欲は吹き上がってくるのであり、断ち切れるどころか、抑えることもできないのですね。

では私たちはどうすれば私たちは本当の幸せになれるのでしょうか?
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幸福感の歴史は快楽主義と禁欲主義

歴史を見ると、幸福論は大きく二つに分かれます。

それは 快楽主義禁欲主義 です。

快楽主義は、欲望をできる限り満たすことが人間にとっての幸福である、という考え方です。
古くから快楽主義者として有名なのは古代ギリシアの哲学者・エピクロスであり、快楽主義をエピクロス派ともいわれます。

この快楽主義によって幸せになれるのでしょうか。

これまでお話してきたことを踏まえると、人間は欲の塊であり、満たしても満たしてもなお欲望は広がっていき、満たしきれない欲によって苦しむことになってしまうのですね。

対して、禁欲主義は、欲望そのものが悪なのであり、それをできる限り抑圧し、徳を積むことによって幸せになれる、という考え方ですね。
禁欲主義は哲学者・ゼノンが起こしたストア派ともいわれるのです。

では、禁欲主義では幸せになれるのかというと、これも今までの観点から幸せになることはできないのですね。欲は抑えられるものでも、まして断ち切れるものでもないからです。

幸せになるには欲望を抑えねばならない、と考える人も少なくありません。中には、欲望を断ち切らねば幸せになれないと思っている人さえあります。
しかしそれらの人たちをカリクレス(古代ギリシアの政治家・プラトン著「ゴルギアス」にも登場する)は

欲望のなくなったのが一番幸せなら、石や屍が一番幸せだ

とあざわっています。欲からできるている人間が欲を断ち切るということはどだい、無理なことなのですね。

では、仏教ではどうすれば幸せになれると説かれているのでしょうか?

煩悩あるままで幸せになれる-煩悩即菩提とは

仏教では、人間は欲や怒り、うらみや憎しみなどの煩悩があるがままで幸せになれることを教えられているのです。
これを煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)と言われます。

お釈迦さまの説かれた仏教も大きく二つに分類されます。

一つは聖道(しょうどう)仏教です。

これは、私たちが幸せになれない原因、苦しみや悩みの原因は煩悩であると説き、きびしい修行によってその煩悩を断ち切り、本当の幸せの境地を目指す、というものです。

多くの方がイメージされている仏教像だと思いますが、実はこの聖道仏教は方便の仏教であり、私たちを本当に幸せへと導くまでの過程の仏教なのですね。

お釈迦さまは末法の今日、聖道仏教の修行に打ち込んでも煩悩を断ち切り、本当の幸せに達するものは一人も現れない、と言われているのです。

我が末法の時の中に、億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るもの有らじ。(大集月蔵経)

前回の記事でも、千日回峰行という難行を成し遂げた僧侶のインタビューを紹介しましたが、残念ながら煩悩を断ち切り本当の幸せに出られた境地のようなことは書かれてありませんでした。今日の私たちが本当の幸せになるにはもう一つの仏教を知らねばならないのですね。

そのもう一つの仏教は浄土仏教です。

浄土仏教では私たちの苦しみ悩みの元は“無明の闇(むみょうのやみ)”という、すべての人の持つ暗い心であると説かれています。

無明の闇とはいわば、心の病気なのですね。心の病気にかかっているので、どんなにお金やものに恵まれても心からの幸せになれていないのです。

自覚症状なき心の病

この病気の恐ろしいところは、自覚症状のないことです。

肉体の病気でも自覚症状のない病気が特に恐ろしいです。たとえば、がんが恐ろしいのは、自覚症状なく病気が進行し、気付いたときにはすでに完治不能なと状態になっているからですね。

だから定期的な検査が重要になります。

最近でも元女子プロレスラーの北斗晶さんが乳がんであることを告白され話題になりましたが、40歳以上の女性は2年に1度は定期検診を受けた方がいいと言われているのです。自覚がなくても定期検診を受け、進行していない状態で病気を発見することがとても大切です。

このように肉体の病気でも自覚症状が出る前に病気を発見することが大事ですが、この無明の闇という心の病も自覚症状はありません。仏教による検診がなければとてもわかるような病気ではないのですね。

早く仏教を聞き、苦しみ悩みの元であるこの病気を知ることが先決です。

この無明の闇を知り、その闇が破られてこそ、煩悩があるままで本当の幸せになれたということがあります。煩悩即菩提の境地に立てるのですね。

では、心の病気といわれる無明の闇とはどんな心であるのか?
次回の記事でご紹介いたします。

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