すべての人間は例外なく「悪人」? 仏の智恵によって教えられた人間の真実の姿

前回は、七千冊以上ある経典に書かれていることをひと言であらわされた言葉が「法鏡」であること、

法鏡とは私の真実の姿を映して見せてくれる鏡のことであり、仏教を学んでいくと、ちょうど鏡に近付いて自分の姿が少しずつ見えてくるように、自分の心の姿が知らされていくことをお話しました。

前回の記事はこちら
七千冊以上の経典で説かれたことをひと言であらわされた「法鏡」とは?

それでは、法鏡に映し出された私の姿とはどんな姿をしているのか。お釈迦さまはどのように教えられているのでしょうか。

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法鏡に映し出された人間の真実の姿

『大無量寿経』という経典には私の本当の姿について以下のように説かれています。

心常念悪(しんじょうねんあく)

口常言悪(くじょうごんあく)

身常行悪(しんじょうぎょうあく)

曽無一善(ぞうむいちぜん)

「心は常に悪を念じ、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、かつて一善も無し」と読みます。

心で思っていることも、口で言っていることも、身体でやっていることも悪ばかりで、これまで一つの善もやったことがないのが人間だ、と言われているのです。

お釈迦さまは私たちの実態をこのように言われているのですが、ご自身が想像していた自分の姿とお釈迦さまの説かれた私たちの本当の姿、比べてどう思われるでしょうか?

大半の方は「お釈迦さまの説かれたのが自分の本当の姿なんて、とても思えない」という反応だと思います。

特に私たちが疑問に思うのは『常』という言葉ではないでしょうか。

「つね」という言葉に2つ、「常」と「恒」があります。「恒」は途切れ途切れに続いていくということで、いわば点線にたとえられます。それに対し「常」は途切れることなく続いていくことです。たとえるなら実線になります。つまり、私たちは途切れることなく常に悪を思い、言い、身体でやり続けていることになるのですね。

『常』が「時々」ぐらいなら、まだ納得できそうです。

「心は時々、悪いことを思っている」
「口では時々、悪いことも言っている」
「身体では時々、悪いことをやっている」

これは自分の思っている姿とも一致し、ピンときそうですね。自分はそんな善人とまではいかないから、時々悪に染まっていると言われれば確かにそうだ、と。

しかし、それはあくまで私たちの勝手な人間観であって、私たちが納得する、しないにかかわらず真実は変わりません。私たちの思いと、仏様の説かれる人間観とはまったく違うのです。

欲目の入った人間観と、仏の智恵で見られた人間観

私たちの見方とは異なり、仏様の見方は大変きびしいのです。

とは言っても、仏様があえてきびしく見られているのではありません。仏様はあくまで、人間のありのままの姿を見られ、それを教えられているのです。

ところが私たちは自分自身のありのままに見ることができないので。それは私たちは自分のことを見るとき“欲目”が働くからです。欲目とは「自分のことをよくみよう」という心であり、もう自分のことを悪いようには見られない心なのです。

この欲目は「自惚れ心」とも言われ、仏教の言葉では『慢』と言われます。慢は煩悩の一つであり、私たちは慢によって自分のことを正しく見ることができず苦しんでいるのですね。

人間は煩悩の塊であり、煩悩を離れて生きることはできません。だから、欲目(慢)を離れて生きることももうできず、自分で自分のありのままの姿を見ることはできないのです。

対して仏様は仏の智恵で私たちの姿をご覧になっています。仏様の智恵で見られた私の姿こそ、欲目によって邪魔されることのない、ありのままの姿なのですね。

私の見方に3種類ある

私の姿を見る、その見方は大きく分けて3種類あります。

  1. 法律を基準とした見方
  2. 倫理・道徳を基準とした見方
  3. 仏眼による見方

はじめの法律を基準とした見方は、法律を犯すようなことをしていなければ善良な市民である、反対に法律違反をするような人は悪人である、という見方ですね。

これは、肉眼で手を見ることにたとえられます。肉眼で手を見ると、ほとんどの方の手は綺麗に見えるのではないでしょうか。明らかに手が汚れている人はいないでしょうね。

だから、法律を基準に人間を見れば、ほとんどの人は悪人ではないと言えます。

2番目の倫理・道徳を基準とした見方は、法律を基準とした見方よりもきびしい見方です。たとえ法律を犯していなくても、法律すれすれグレーなことをやっている人は倫理・道徳的には善い人とはいえないですよね。また陰口を言っている人とか、インターネット上に悪口を書き込んでいる人とかは法律には触れないですが、善い人とは言い難いですね。

それはちょうど虫眼鏡で手を見ることにたとえられます。虫眼鏡を通して手を見たならば、肉眼で見たときにはわからなかった手の汚れにも気づくでしょう。見方がきびしくなるのですね。

最後の仏眼による見方が、先ほどお話しました仏の智恵を通した見方です。仏様の見方はたとえていうと、電子顕微鏡で人の手を見るようなものなのです。電子顕微鏡で見たならば、肉眼や虫眼鏡では綺麗に見えた手も、無数の細菌が付着していることがわかり、とても綺麗と言うことはできません。どんなに綺麗に手を洗った人の手でさえ「汚い」と言わざるを得ないのです。

仏様がご覧になれば、どんな人間も心と口と身体で悪いことばかりをやり続ける「悪人」と見えるのですね。お釈迦さまはその人間の姿を「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」と言われているのですね。

では、人間は心と口と身体でどんな悪をやっていると仏教では説かれているのでしょうか。それについて次回、お話していきます。

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