仏教で最も心が重視される理由 真実の姿とは心の姿
前回は仏教とは『法鏡』といわれ、私の本当の姿を映して見せてくださる鏡であり、仏教を聞いていくことで今まで気付かなかった私の姿が知らされていくということ、
そして、仏の智恵から説かれた私の本当の姿とは「心でも口でも身体で常に悪を思い、悪を言い、悪をやっている」ことをお話しました。
前回の記事はこちら
すべての人間は例外なく「悪人」? 仏の智恵によって教えられた人間の真実の姿
「人間は悪を常に造り続けている」とは、とても自分自身のこととして受け止められませんが、それは仏の智恵からありのままに見られた私の姿なのですね。
では、私たちが造り続けている悪とは何か、お話していきたいと思います。
人間の姿は心・口・身体の三方面から見られる
仏教では、心と口と身体の三方面から人間の姿が見られています。
心では何を思っているのか、
口ではどんなことを言っているのか、
身体ではどんなことをやっているのか、の三つを見られて、人間とはどんなものなのかが決まるのですね。
仏様は私たちの身体的な特徴を見て優劣を決められたりはしないのです。見た目ではなく、あくまでその人がどんなことをやっているのかを見られているのですね。
お釈迦さまが説かれたお経に『玉耶経』という経典があります。
これはお釈迦様が玉耶(ぎょくや)という給狐独長者(ぎっこどくちょうじゃ)の長男の妃として迎えられた女性に説かれたものです。
玉耶はわがままで、気に障ることがあると使用人に当り散らし、関心があるのは自分の美貌ばかりで、朝から晩まで鏡の前に座っているような生活をしていたのです。
困り果てた給狐独長者がお釈迦さまに相談したところ、お釈迦さまが玉耶に教えを説かれに行かれたのです。
お釈迦様は玉耶にこう優しく諭されました。
「玉耶よ。いかほど顔や姿が美しくとも、心の汚れているものは醜いものである。
黒い髪もやがては白くなり、真珠のような白い歯も段々と抜け落ちていく。
顔にはシワができ、手足は次第に不自由になってくる。そのような肉身に何の誇りがもてようか。
心の美しい女になって、だれからも慕われることこそが、大切とは思わぬか」
そして、世に七通りの婦人(七婦人)がいることを説かれたのです。
このように、いくら顔や姿が美しいといっても、それは年齢を重ねることで衰えていきます。アンチエイジングがいくら発達しようとも、老化を免れることはできないのですね。
だから人間の優劣は見た目で決まるのではなく、その人の行為によって決まります。それが仏教の観点なのですね。
心と口と身体 最も重視されるのは
では、この心と口と身体のうち、どれが最も大事だと仏教では教えられていると思われますか?
それは心です。
なぜなら、心が口や身体に命令して行為をさせいるからです。心で思ったことを口に言わせるのであり、身体にやらせています。心で思っていないことを口が言ったり、身体がやったりすることはないのですね。
世間一般で心が問題視されることはほとんどありません。たとえ心でどんなことを思っていても取り締まられることはありません。口に出したり、身体でやったりしなければセーフです。心で思っていることは人間同士ではわからないので、悪巧みをしていようとも取り締まることは不可能です。
ところが、仏様は見聞知(けんもんち)の方といわれます。
見聞知とは、仏様は
見:誰も見ていなくても、お前のやっていることは見ておるぞ、
聞:誰も聞いていなくても、お前の言っていることは聞いておるぞ、
知:誰もわかっていなくても、お前の思っていることは知っておるぞ、
と、たとえ人間の眼はごまかせたとしても、仏様の眼はごまかすことはできず、私たちの心と口と身体の行いをすべて見通しておられるのです。
口と身体の行いもすべて見通しておられると聞いてもドキッとしますが、どんな人にもわからない心のことまでお見抜きなのが仏様なのですね。
その仏様から見られると、私たちは心で悪を思い続けていると教えられているのです。
では私たちは心で具体的にどんな悪を思っているのでしょうか。次回、お話します。