六度万行:禅定 -お釈迦さまの説かれた幸せになれる6つの道-
お釈迦さまは、私たちが幸せな人生を歩むための6つの道(善)を説かれています。
それを六度万行(ろくどまんぎょう)といいます。
6つ教えられている善いことの、どれか一つでも徹底して実行すれば幸せで豊かな人生を送れるのだ、とお釈迦さまは明らかにされているのです。
今回、六度万行では5番目に教えられている禅定(ぜんじょう)について解説します。
禅定は心をしずめ、自分の言動を振り返ること
仏教で『禅定』とは、
「禅」は「しずめる」、「定」も「定める」こと。
散乱する自分の心をしずめ、さだめることをいいます。
人のことばかりに目が向き、「あいつが悪い」と非難する心をしずめる。
そして自分はどうか、と振り返る、ことです。
【間違っていると知れば直す。】
幼稚園で習うことですが大人でもできません。
「悪いことしたら
“ごめんなさい”って言うんだゾ。
幼稚園ではみんなそうするゾ。」
とクレヨンしんちゃんに言われて、大の大人が赤面する場面は印象的でした。
幼稚園児から大の大人まで、どんな優れた人でも
【率直に自分の問題を認めて反省する】
死ぬまでその繰り返しでしょう。
これで完璧、など人間にあるはずがないのですから。
注意をしてくれる人は自己を磨いてくれる大事な人
人から受けた注意を「おのれ、批判された」
と腹を立てていては、とても大成できません。
自分を間違いの無い者のようにうぬぼれているから腹が立ってくる。
腹を立てる元はうぬぼれ心にある、といえましょう。
完璧な人間、どころかむしろ欠点だらけだから、
ごまんとある欠点の一つ二つでも直せば、その分一歩、二歩、向上できるのです。
自分では欠点を気づかないから毒をまき散らしてしまいます。
他人にはその毒がよく分かるものだから親切な人が知らせてくれているのに、指摘されて腹立てたり、うらんだり、憎んだりしたらこれは大人とはいえません。
人の注意はけっして気持ちよくはないけど、『磨かれている』ということです。
「ゴシゴシやられて、痛い。指摘はいやだ。」
その痛みが磨かれていく過程です。
「それでいいぞ。」
それで、どうしてそれ以上伸びるだろう?
「完璧だよ。」
それでどうして向上するのだろう?
【至言は耳に逆らう】
なかなか自分の良くないところを指摘してくれる人はいないものです。
たいていは影で中傷非難、あるいはもの笑いの種にされるだけです。
言ってくれる人は大事な人です。
【己を磨いてくれる人】といえましょう。
ところがわたしたちは磨いてくれる人を嫌うものです。
手厳しい指摘を受け入れていけるか、はねつけるか、それで人間の器は分かれるのでしょう。