分かり合いたいのに分かり合えないのはなぜ?お釈迦様の教えられた「業界(ごうかい)」①
「1からわかる仏教講座」スタッフのminamiです。
仏教講座の内容をご紹介します。
※記事の内容が動画で紹介されています
わかり合えずに苦しむのはどうして?
「友達や家族、上司や部下、パートナーや恋人とわかり合いたい」という気持ちはどなたも持たれているでしょう。
お互いをわかり合えれば、対人関係で悩むことはなくなりますし、わかり合えた幸せな思いで満たされますね。
ところが実態は、パートナーとのケンカが絶えず、わかり合えないことに失望している人が多いのではないでしょうか。
「私はこんなにパートナーのことを考えているのに、どうしてわかってくれないの?」という思いがなくなりません。
なぜわかり合いたいと思っているのに、わかり合えずに苦しむことになるのでしょうか。
人間は生まれてから死ぬまで独りぼっち?
お釈迦様は「独生独死 独去独来(どくしょうどくし どっこどくらい)」とおっしゃいました。
私たち人間は、独り生まれて独りで死んでいく。独りこの世にやって来て独りでこの世を去っていく、ということです。
これは誰も友達がいないような、特定の人のことを言われているのではありません。すべての人のことを指しています。
この言葉を聞いて、「いや、私は独りじゃない。私には家族もパートナーも、たくさんの友達もいる。なんで独りだと言われてるの?」と疑問を持つ方もいるかもしれません。
それは、私たちには肉体の連れはいるが、魂の連れがいないからなのです。
肉体の連れというのは家族や友人、パートナーのことですね。肉体の連れはほとんどの人がいると思います。
対して魂の連れというのは、「心の底からわかり合える人」のことです。
心の底からわかり合える人というのはいないと言われています。
それはなぜかというと、業界(ごうかい)がそれぞれ異なるからなのです。
見方、感じ方が異なるのは「業界」が異なるから
業界というと、芸能界の人のことのように思うかもしれませんが、業界とは元々仏教の言葉であり、特定の業種の人のことではありません。
業というのは「カルマ」のことで、行いという意味です。ですので業界は行いによってつくられた世界をいいます。
人はそれぞれ異なる行いをしていますから、それぞれ独自の業界に住んでいます。業界が人によって違うから、モノの見方、感じ方も人それぞれなのです。
たとえば、恋人同士で同じ映画を見た場合、その反応は違ってくると思います。
一般的に男性はアクション映画は好んで見ますが、恋愛モノになると途中で寝てしまい、彼女に怒らせたりします。
反対に、女性はアクションものは面白さがわからないのですが、恋愛映画には感動して涙を流す人が多いです。
なぜこんなにリアクションに違いが出るかというと、それはこれまでの行いや経験が異なり、それによって生み出された業界も違っているからなのですね。
同じ空間で、同じものを見ていたとしても、それぞれが別の世界に住んでいるのです。
「あの人には何でも言える」は「言える範囲までは」ということ
似たような環境で育ち、似たような経験をしてきた人同士では「わかる、わかる」と共感できる部分もあります。
とはいっても、共感できる部分はほんのわずかで、大部分は相手のことが理解できないのです。
「私はあの人には何でも言える」と言っている人でも、それは「(言える範囲までは)何でも言える」ということです。
心で思っていることを洗いざらい、まったく包み隠さずに言えるかというと、「これだけはとても言えない。言ったら人間関係が破壊されてしまう」ということをどんな人も持ち合わせているではないでしょうか。
自分のすべてをさらけ出して、それでもなお自分を受け止めてくれる人もいませんし、相手のすべてのカミングアウトを受け止められる人もいません。
だから人間は生まれてから死ぬまで独り、孤独であるといわれるのですね。
そんな孤独な人間がどうすれば幸せに生きていけるのか。
また、決してわかり合えない相手と、どう接していけばよいのか。
次回の記事で、その点をご紹介します。
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