親切をしたのに腹が立つ! お釈迦さまが「一つの善もしたことがない」と断言された理由とは?

前回は、心と口と身体の行いの中で、心が大元であり、仏教では心の行いが最も重視されること、

その心では、とても人には言えないことを思っているのであり、本音を隠すのに私たちは苦しんでいることをお話しました。

それをお釈迦さまは「曽無一善」(これまで一つの善もしたことがない)とおっしゃっているのです。

「 これまで一つの善もしたことがない」とお釈迦さまは断言されているのですが、これには反発の思いを持たれる方もいるでしょう。

「確かに、たまには悪いと知りながらやってしまうこともあるが、善いことだってしている電車で席を譲ったり、元気のない人を励ましたり…」と思われますよね。

曽無一善」のお言葉を正しく理解するには、仏様から見られて善といえるものはどんなものなのかを知らねばなりません。

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仏様から見られた善は「真実の善」 人間の善は…

お釈迦さまをはじめとする仏様から見られた善とは「真実の善」のことです。

真実の善とは、身体の行為だけではなく、心も清らかな状態でする善をいわれます。

清らかでない心とは、どういう心のことでしょうか?

それは「見返りを求める心」「恩着せ心」をいわれます。

他人に親切をしたときにお礼を言われなかったらどう思われますか?

電車で席を譲っても、お礼もなくドカッと席に座られる
心を込めて料理をつくったのに、「おいしい」「ありがとう」の一言もなくムシャムシャ食べるだけ

こんな状況になったら腹が立ちますよね。ムカムカしてきます。「私は時間がありあまっていて料理をつくっているわけじゃないんだよ。時間もない中、あなたの健康を思って料理をつくったのに、お礼も言わないなんて、どういう神経しているのよ!」と怒りがこみ上げてきます。

どうして親切をしたのに腹が立つのか? それは人間には「自分はこんなにやっている」という“見返りを求める心”があり、お礼を言わなれないと、その心が満たされないからですね。満たされないと礼の催促をしたり、怒りの感情が出てきたりしています。

親切をするのは本来、相手の幸せを思ってのことです。相手が幸せになってもらえればそれでいい、とだけさえ思えればいいのですが、どうしても自分の利益も考えてしまう…。

一生懸命親切をやっている善人ほど、腹を立ててしまうというのは悲しい人間の性です。

人間のする善は例外なく、見返りを求める「雑毒の善」

仏教では、人間のする善(善いこと、親切)はすべて「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」と言われています。

雑毒とは、毒が雑じっている、ということです。毒とは、見返りを求める心のことです。私達の人間のする善には例外なく、見返りを求める心がともなっている。それを毒が雑じった善と教えられているのですね。

どうして見返りを求める心を“毒”と言われているのでしょうか?

毒を飲んだことはありますか? ないですよね苦笑 仮に毒を飲んだらそれによって苦しむことになります。

夏場になると食中毒が飲食店で発生します。衛生管理に不備があり、O157などの病原性大腸菌を身体に入れてしまうと直中毒で苦しみます。

ちょうどそのように、親切をしたときに期待通りの見返りが得られないと、「こんなにやってあげているのにどうして!」と見返りを求める心が怒りへと変わります。その怒りによって自分自身が苦しむことになるから毒にたとえられているのです。

仏様からご覧になれば、人間のする善には例外なく毒が雑じっている雑毒の善です。だから「これまで見返りを求めない清らかな心でやった善(真実の善)は一つもない」と断言されているのです。

では「毒が混じっている善なら、やらない方がいいのでは?」と思われるかもしれません。しかしそこは大きな誤解です。決して「善をしてはならない」と言われているのではなく、真意はその反対なのです。

善をするときの心がけについて次回、詳しくお話いたします。

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